初代から関わり、ハイラックスが私を育ててくれた

浅井 重雄(5代目ハイラックス開発責任者)

ハイラックスは私が入社して5年が経った1968年に誕生しました。私は初代ハイラックスのシャシーフレーム設計の担当になり、ここからハイラックスと関わるようになりました。ラダーフレームは昔からありますが、溶接タイプのフレームはとても奥が深く、溶接する箇所、順番によって歪みが変わってきます。また溶接したての熱を持っているときと冷めたときでも変わってきます。だから計算とテストを繰り返しながら、適正値を見つけます。そのうえで生産する社員の高い技術、職人技のプレスや溶接により、しなやかで強いラダーフレームが生まれます。ここでハイラックスのベースを勉強しました。2代目では、足回り全般の設計責任者になりました。そして2代目の後期から3代目にかけて、主担当員としてクルマ全体をみることになり、ハイラックスとはどうあるべきかを考えるようになりました。4代目、そして5代目とハイラックスの開発責任者をしてきましたが、私が目指してきたことは、悪路走破性、居住性、快適性を高めながら、何より“世界中でいつでもどこでも誰でもが、快適に移動できるクルマ”にすることでした。

ハイラックスの担当になると海外に行ける

ハイラックスは日本の高度経済成長を支えたクルマのひとつだと思います。荷台に荷物を載せて仕事用として働いてくれるだけでなく、夫婦で出かけることもできるし、国内では青果店や鮮魚店で配達などに使われます。後に誕生するダブルキャブは、電力会社の作業者が4名乗車して、荷台に工具を載せ、山間部の鉄塔のメンテナンスなどに使われています。また早くから輸出の多かったハイラックスは、世界基準でみたときに評価が高く、いわゆる“いいクルマ”で海外で特に人気を博しました。しかし当時は海外を視察することが一般的ではなかったので、開発責任者になったとき、とにかく開発者がひとりでも多く海外の現場を見ることができるような環境づくりをしました。現地の使用状況を国内の道やテストコースでも再現できないため、実際販売されている世界の道を走って鍛えたいと会社と交渉して、試験車を海外に開発者とともに送り込みました。もっと現場を知り、“もっといいクルマづくり”をするためです。すると社内の技術者の間では、ハイラックスの担当になると海外に行けると喜ばれ、人気の部署になりました。

また販売台数でみると、当時1位はカローラで2位がハイラックスでした。しかし9割近くが海外で販売されているので、国内で見かける比率が低い。だから社員ですら、ハイラックスがトヨタを代表するクルマのひとつである認知度も低かった。社内報に販売台数のランキングを載せてもらうよう働きかけ、社内での認知度を上げたら、志願して優秀な開発者が集まって来てくれました。そして設計者だけでなく、生産現場から営業、経理に至るまで、ハイラックスに関わる社員と一丸になるために、食事をしたり、ソフトボール大会まで開催して、それこそ全員野球ではないですが、コミュニケーションを取れる環境を増やし、“チームハイラックス”としてクルマ作りに邁進しました。目的はただ仲よくするのでなく、思いっきり意見を出しあうためです。

車両実験部の技能員の人達は、私たちが作ったハイラックスの試作車に乗る、一番最初のお客様だと思っていました。だから『技能員の評価は、お客様の声』としてカイゼンに反映していきました。仕事では設計のスタッフには相当厳しくしていましたが、車両実験部の技能員にはやさしいと言われていました。

海外に出てハイラックスも人も鍛えられた

浅井 重雄(5代目ハイラックス開発責任者)

海外の現場を見てきて気づいたことは、国によって使い方がまったく異なることです。アメリカではセダンなど乗用車とピックアップを所有し、平日は乗用車、週末はピックアップに乗って買い物に行く。また砂浜に遊びに行ったりもします。ハイラックスはトラックではない「ピックアップ」という独自の文化がそこにありました。一方タイでは、数十人を運ぶバスのような使われ方をしている。中近東では、若者がエアコンの効いた車内でラジオを聴いたり、自分だけの部屋のような感覚で使われている。こういうふうに使ったらハイラックスはいいんだと、現地の人が教えてくれました。

またオーストラリアの中央部でひとたび雨が降れば、細かく赤い砂が泥になって、とても2WDでは走れない。登坂路や砂地でも同じ。クルマはもっと万能なものでなければと思いました。いつでもどこでも誰でもが走破できるようにするためには4WDでなければならない。トラックとしての機能を高めながら、居住性、世界中のライフスタイル、道に対応するベース車を作ることがハイラックスの使命だと気づきました。それまでハイラックスは、働くクルマとして作られてきましたが、国内外のユーザーの使い方を見るうちに、もっと多様なユーザーの用途に合わせるためにはファミリーユースとトラックユースと両方に使える車を作っていくべきだと確信しました。

4WDによってハイラックスの世界が一気に広がった

5代目ハイラックス

ハイラックスの4WDをラインナップに加えたとき、ボデーを載せず、車体フレームが見えるシャシーベース車の状態で海外に持ち込み、説明に行きました。オーストラリアで4WDのプロモーションをするとき、スーツ姿で行ったら現地のスタッフに「ズボンを切って短くして」「4WDはオフロードのイメージなのだから」と言われ、慌ててアウトドアショップへウェアを買いに行きました。プロモーションではアウトドアでキャンプだったので、確かにスーツではおかしい。開発者としていいクルマを作ることが最も大事ですが、自分たちがハイラックスに込めた思いをどう伝えていくか、プロモーションもとても大事だと思い、海外の販売店とともにとにかく新しいことに取り組みました。ハイラックスは性能もプロモーションもいつも新しい挑戦をしてきたクルマです。既にハイラックスサーフは、アメリカで人気が出ていたので、欧州でも認知度を上げたいと思い、当時最も注目されていた“パリダカールラリー”に参戦したりもしました。

また4WDをどうわかりやすく広めていくか。現在ではSUVというカテゴリーが一般化していますが、当時日本ではレジャービークル(RV)、マルチパーパスビークル(MPV)など呼び方が定まっておらず、ユーザーにもわかりにくい状態でした。そこでストレートに4WDのマークをつけるようにして、これを商標登録せず、一般名称にしてすべての自動車メーカーで使えるようにしました。こうすれば日本はもちろん、海外の英語圏以外でも使えるマークになります。後日、前後輪操舵を意味する4WSというマークが出てきたときに、機構を表すマークとして4WD、4WSと一般名称になってよかったと思いました。

ランドクルーザーから学んだこと

トヨタの4WDといえばランドクルーザーがあります。信頼性、耐久性、悪路走破性の高さで海外では絶大な信頼を得ていました。乗ってみると、ランドクルーザーは理屈で作ったものでなく、改良に改良を重ねたクルマであることがわかります。技術的になりますが、たとえばアクセルやクラッチが重いのです。これには理由があり、乗用車と同じ踏力で設計したら、不整地走行でクルマが前後に揺れたときにアクセルを踏みすぎてしまい、うさぎ跳びをしているかのように、車体が前後に揺れてしまいます。これを避けるためにあえて重くしているのです。またサブトランスミッションがあり、HレンジとLレンジが切り替えられますが、Lレンジはとてもトルクがあるので、エンジン自体がロールするのです。それをうまく逃がすためにエンジンマウントのサポートのピッチが広く設計されていたりしています。そして渡河走行など、水の中を走ることを想定し、吸気口はできるだけ上部に取り付けてられています。水だけでなく砂塵の影響を極力受けないようにするためにエアシュノーケルを装着できるようになっています。ランドクルーザーからの勉強をベースに、より多くの方々が乗っていただけるよう、女性の運転も視野にしてアクセルとクラッチを必要最小限の踏力で操作できるようセッティングをしました。そしてパワーステアリングにもこだわりました。適度に重みのあるようにし、不意に路面から強い衝撃が入っても、うまく吸収してくれる画期的なものに仕上がったと自負しています。信頼性、耐久性、悪路走破性を高めながら、より快適に乗れるクルマ作りをハイラックスは目指しました。

ピックアップ文化のあるアメリカでハイラックスが認められた

浅井 重雄(5代目ハイラックス開発責任者)

海外でも特にアメリカは、ピックアップトラックが生活に密着しています。ただ西海岸と中部、北部など地域によって用途が異なります。西海岸であれば、若者のレジャーや砂漠、岩石路の走行などとして、中部では農業従事者の仕事の道具として使われます。様々な用途に合うように、幅広いバリエーションでカバーしました。私がハイラックスの開発責任者として決めていたことが2つあります。ひとつは世界の人々から、“その国のHeart(気持ち・信条)を知っているクルマ”になることです。これはハイラックスの4WDを作ってアメリカで販売したとき、現地のかたに「このハイラックスは、アメリカ人のHeartを知っているクルマだ」「俺のために作ってくれたクルマだ」と喜んでいただき、とてもうれしかったです。そしてもうひとつは、遠くから見ても一目でハイラックスとわかることです。その2つをポリシーにして開発してきたら、1989年にアメリカのトラックオブザイヤーに5代目ハイラックスが選ばれました。ピックアップの本場アメリカでハイラックスがこの賞を獲れたことで、開発責任者として目指してきたことが認められたということで、とてもうれしかったです。初代から5代目まで、ハイラックスの設計、開発に関わらせていただき、絶えず新しい挑戦をし、開発チーム一丸となってともに成長してきました。ともに新たな轍をつけてきた“チームハイラックス”のみなさんに感謝しています。

また、世界のハイラックスの親工場として、ハイラックスを大切に育てていただいた、トヨタ自動車の田原工場、日野自動車の羽村工場の皆様にお礼申し上げます。

5代目ハイラックス開発責任者
浅井 重雄(アサイ シゲオ)
昭和38年4月
トヨタ自動車工業株式会社入社
昭和51年2月
製品企画室 主担当員(ハイラックス担当)
昭和59年2月
製品企画室 主査(ハイラックス担当)
平成5年12月
退社
平成6年1月
太平洋工業株式会社入社
平成6年6月
同社常務取締役就任
平成8年6月
同社専務取締役昇任
平成18年6月
同社退社
5代目ハイラックス開発責任者 浅井 重雄