2016年10月21日

本多 孝康(8代目カローラ開発責任者)

 

本多 孝康(8代目カローラ開発責任者) 本多 孝康(8代目カローラ開発責任者)
2016年10月21日

本多 孝康
(8代目カローラ開発責任者)

初めての愛車

 カローラとは長い付き合いです。付き合いが始まったのは1968年、トヨタに入社した年に初めての愛車としてカローラスプリンターを買いました。スタイルも良かったし、軽快に思い通りに走る楽しさもあってすごく満足したクルマでした。

カローラ スプリンター(1968年)

カローラ スプリンター(1968年)

FFになった5代目

 1977年に揚妻主査(開発責任者)付担当員としてカローラの製品企画に異動しまして、最初は3代目カローラの排気ガス規制対応の仕事を引き継ぎ、それが終わって4代目の開発に途中から参加しました。4代目のカローラは新型エンジン、ラック&ピニオン式ステアリングを採用したり、リアはリーフスプリングからコイルスプリングの4リンクに変えるなど大変意欲的なモデルで、完成度の高いスタイルの良いコンパクトセダンとして高く評価された車でした。

 4代目が出てしばらくした頃、私は揚妻主査から「次のカローラをFF(フロントエンジン・フロントドライブ)にするために、FF専任で開発に取り組むように」と指示されました。これには伏線があるんです。当時、トヨタとしては横置FFカムリ、縦置FFターセルを開発中でしたが、4代目のカローラを市場に出す前の欧州適合試験に行った際、たまたまFFターセルとの合同試験隊でした。その中で欧州の走行条件ではゴルフなどの競合FF車も含めて、このクラスはFFが有利だと思い知らされ、帰国してその旨を揚妻主査に報告し、私としてもカローラを欧州競合車に負けない走行性能の車にしたいという強い思いがありました。

 最初は、FRでFFに勝つ方法も含めて様々な検討をしましたが、「このクラスの将来の主流は横置きのFF」が私の結論でした。当時、トヨタとしては、徐々にFF化を進める考えだったと思います。しかし、揚妻主査は、カローラの主査として「次のモデルからFFにすべき」との強い信念を持っていたようです。多くの検討の結果、縦置エンジンと共有しても国内の5ナンバーサイズの1.7メートル幅で何とか横置FFカローラを実現できる案を作りました。もちろんトランスミッションやフロントサスペンションは専用設計でした。しかし、なかなか承認が得られずに何度も提案を続けました。そんなことがしばらく続き、あるとき突然「GOサイン」が出ました。しかも、コロナのFF化まで加わりました。世の中のFF化の動きが速かったため、「遅れていたFF化を急げ」との意思表示だったと思います。揚妻主査の固い信念の結果です。これでFF化が一気に動き出していきました。

FF(前輪駆動)方式を採用した5代目カローラ

FF(前輪駆動)方式を採用した5代目カローラ

「2F連絡会」と思い切った共通化

 遅れていたFF化を加速するために、カローラが事務局になって「2F(FF)連絡会」という会議体を作り、ターセルやカムリ、コロナの開発メンバーと一緒になって、共通課題の早期解決に取り組みました。様々な検討がされましたが、そのひとつが「思い切った共通化」でした。カムリのフロントは専用、カムリとコロナのリアが共通、コロナとカローラのフロントも共通、カローラとターセルのリアも共通、ターセルのフロントは専用。また、ターセルのフロントに当時販売されていたFRカローラのリアを組み合わせると4駆のカリブになる。そんな共通化の絵を描き、開発が一気に進んでいきました。もちろん、すべてが上手くいったわけではなく、5代目FFカローラはエポックメイキングだったものの、原価との折り合いなど、未消化の部分も残りました。

 あの頃は日本の経済が高度成長に向かう真っ只中。技術者は夢と希望を持って果敢にチャレンジしていた時代でした。「海外のクルマに負けてなるものか」という気持ちも強かったし、開発の現場にはすごく前向きな気持ちが溢れていて、空気も熱かったですね。こうしてカローラのFF化が実現したこの5代目が私にとっては一番思い入れのあるカローラになりました。カローラFF化は、私にとって開発責任者と思いを同じくして仕事ができた充実した時間でした。

 そんな中でFRを継承した86レビン/トレノが高評価を得たことは興味深いことだと思います。幅広いユーザー向けに普遍的に造るセダンと、限られたクルマ好き向けに造るスペシャリティとの違いが見られて面白いですね。

 その後の6代目は、折からの「ハイソカー(上級車)ブーム」もあって、より完成度の高いFFへと進化することができましたが、7代目の発売直前にバブルが崩壊しました。

本多 孝康

微妙な舵取りが求められた8代目と8.5代目

 8代目では開発責任者をつとめましたが、このときの開発は、かつてない厳しい条件のもとで進められました。なにしろバブルが崩壊した直後でしたから、いわゆるバブルの清算のために原価低減を強く意識しなければならない時代でした。原価低減を意識しすぎると必要なものまで削って貧弱になる心配がありました。でも、バブル期の車の開発で、性能や品質はすごく向上したものの、重くて高くなったのも事実。もっと知恵を出して必要なものは維持向上しよう、そのうえで贅肉を落としてスリムになろう。そう考えて、「シェイプアップしてスリムで健康的に!」をキャッチフレーズに開発を進めました。鍛えて逞しくなって、贅肉を落としながら筋肉をつけ、健康的なカローラにする。大幅な軽量化とリポジショニングも出来ました。

 またこの時の制約条件のひとつが、北米現地生産の関係で海外向けは2年後の切り替えとすることでした。国内と海外が2年も空くのは考えられないことですが、北米で現地生産するカムリとカローラがたまたま同じ年に重なることになったゆえの判断でした。この条件下で考えたのは、8代目を「2年間限定で我慢してバブルの清算をする」、そして「2年後の国内マイナーチェンジと海外向けの新型投入のタイミングで、いわば『8.5代目』として再構築する」という企画でした。そして海外生産の進展も含めて、日米欧の地域対応カローラにしました。これが本来の8代目の姿なのです。そんな暗い時代だったからこそ、開発途中のハードトップに変えて新規投入した「スパシオ」は新しい時代を感じさせ、また開発陣も「なにくそ」と意気込んで短期開発できた車でした。

8代目カローラ

8代目カローラ

カローラは青春そのもの

 カローラは私をすごく夢中にさせてくれる面白いクルマでした。苦しい事や思い通りにいかないことも沢山ありましたが、良い方向に出来た時の充実感が大きい。開発に携わった20年間は本当に楽しかった。私にとってカローラは青春そのものみたいな存在でした。

 そんなカローラが50周年を迎えたというのは、夢のような話で非常にうれしいですね。FF化をはじめ、世の中の変化にしっかり対応してきたから50年もの歴史を築けたんでしょう。これからのカローラも、「カローラ」という名前に縛られ過ぎず、こだわらず、自由にやっていって欲しいと思います。

本多 孝康

本多 孝康(8代目カローラ開発責任者)

1968年トヨタ自動車入社。コロナ、マークⅡ、ハイエースなどのシャシー設計を担当したのち、1977年に製品企画に移りカローラの製品企画を20年間担当。1991年には8代目カローラ開発責任者に就任。

本多 孝康